終戦の日によせて N
私の故郷は和歌山市から東へ40Kあまり国道24号線を通って1時間半、盆や彼岸以外にも墓へ参ります。弟夫婦がきちんと墓守りをしていてくれるので私の墓参は般若心経も唱えずに、南無大師遍照金剛 「アン」で終わります。その墓地の入り口に六地蔵さんがあり隣は境界さん、(ここから死者の世界に入るといわれ今から10数年前まで土葬でしたので棺を3回半回って自家の墓地へ埋葬しました。)
その境界さんを過ぎて大きな石碑が二つ。私の実家のご近所のSさん兄弟のです。でもその大きさが違うのです。今は亡き母に聞きました。「戦死したらお上から金が下りる、でもその金は墓を立てるための金で世帯の足しにはでけへん、でも、あとになるほど小さくなる。」そういわれて石碑を見れば昭和18年1月と18年10月、これだけ戦争中でもインフレが進んでいたと知らされました。国民学校の5年生まで戦時下で過ごした私は八幡さまの境内で出征兵士を送り、英霊を駅まで出迎えた記憶があります。そのときは子供でなにも考えなかったけれど、今になって思えば、2人もの息子を亡くした親の気持ちはいかばかりか、残された妻や子供の悲しみは消えることがないと思われます。
戦後61年日本は平和がつづいているけれど、共謀罪やら 憲法改悪などキナ臭い動きがあります。兵隊としての経験はないけれど、戦中戦後のあのつらい経験は2度としたくはないと思うのは私だけではないと思います。
NHKの朝ドラ「純情きらり」の主人公に自分の青春を重ね合わせる女性も多いと聞いています。耳も遠く足腰は弱っても、一票は持っているし、口はまだいける。
孫子のためにもうひと頑張り、しようではありませんか。
戦争展での会話から
「藤澤さんあのゲートルの巻きかた違うでな。行軍したらすぐ落ちる。」
「そおや、なかで折らんと。でも戦争中はゲートルとは言えへんで「巻脚半」、敵国語は禁止やさかいなあ。」