終わりに
こういう日本社会のいわば体質ともいうべきものを、どう改めていくのかは難しい問題で、ここで詳しくとりあげることはできません。やはり、なにか問題がおこるたびに根気よく運動をおこしていく以外にないと思いますが、それよりもいまなぜこういうことが問題になっているのかについて、申し上げ、話を終わりたいとおもいます。
最初にも申し上げましたが、戦争責任の問題をめぐって、いまとくに教科書にたいする攻撃がはげしくなっていますが、教科書攻撃がはげしくなったのは今回が戦後三回目です。そしてそのいずれのときにも、憲法改悪と日米安保の問題が教科書攻撃の裏にあったのです。第一回目の教科書攻撃は一九五五年から五六年にかけてで、それはいまの自民党の前身のひとつである民主党が、社会科の教科書は偏向しているという内容の『うれうべき教科書』という本をだして、検定の強化を訴えたのです。それは一九五一年の安保条約の締結をうけ、鳩山内閣が憲法改悪のために小選挙区制を導入しようとしたときでした。
第二回目の教科書攻撃は一九八○年ごろで、このときは「侵略」を「進出」と書きかえさせようとしたのですか、中国をはじめアジア諸国からきびしい批判をうけ、一九八二年に文部省は「近隣のアジア諸国とのあいだの近現代史の歴史的事象の扱いには国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること」といういわゆる「近隣諸国条項」を検定基準につけ加えました。このときの教科書攻撃の背景には一九七八年の、ガイドライン(日米防衛協カの指針)」と、これをうけた自民党の憲法調査会による改憲の動きがありました。
自由主義史観研究会の人びとはこの「近隣諸国条項」の撤廃を要求しています。そして、いま使われている教科書を攻撃するだけでなく、自分たちで教科書をつくろうとしているのです。このように第三回目にあたる今回の教科書攻撃は、大衆運動の形をとりいままでより以上に大規模で徹底したものとなっています。その背景には一九九七年の「新ガイドライン」と憲法調査委員会を国会内に常設しようという動きとがあることはあきらかです。