一 戦争責任とはなにか
3 戦争犯罪人の処罰
東京裁判ではA級戦犯だけが裁かれ、BC級戦犯はアメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、フランス、フィリピン、中華民国、中華人民共和国、ソ連が各地で軍事裁判をひらいて裁きました。
A級戦犯として起訴されたのは二八名で、その判決はつぎのとおりでした。
絞首刑:東条英機ひでき(首相・参謀総長) 広田弘毅(外相・首相) 土肥原どいはら賢二(在満特務機関長) 板垣征四郎(支那派遺軍総参謀長) 木村兵太郎(ビルマ派遣軍司令官) 松井石根いわね(中支那方面軍司令官) 武藤章(陸軍省軍務局長)
終身禁固:木戸幸一(内大臣) 平沼騏一郎きいちろう(首相) 賀屋興宣おきのり(蔵相) 島田繁太郎(海相) 白鳥敏夫(駐伊大使) 大島浩(駐独大使) 荒木貞夫(陸相) 星野直樹(内閣書記官長) 小磯国昭(首相) 畑俊六(支那派遣軍総司令官) 梅津美治郎(参謀総長) 南次郎(陸相) 鈴木貞一(企画院総裁) 佐薩賢了けんりょう (陸軍省軍務局長) 橋本欣五郎(陸軍大佐) 岡敬純(海軍協省軍務局長)
禁固二〇年:東郷茂徳しげのり(外相)
禁固七年:重光葵まもる(外相)
残り三名のうち二名(松岡洋右、永野修身)は獄中で死亡し、一名(大川周明)は裁判中に精神異常となって釈放されました。
BC級戦犯として起訴された人は五七〇〇人にたっします。うち一〇一八人は無罪となって釈放されましたか、死刑判決をうけた人も九八四名におよびました。罪状の大部分は捕虜虐待の罪です。日本軍は「捕虜になるぐらいなら自殺せよ」と教えており、敵兵を捕虜としたときも、これをどうあつかうべきかを教えていませんでした。むしろ、日本刀の試し斬りと称して摘虜を殺すことを奨励したり、自慢したりする風潮がありました。こういう日本軍の人命軽視の思想が多くの摘虜虐待を生みだしたのです。
私は戦後、アメリカの文化人類学者ベネディクトの『菊と刀』という本を読んで、「日本の軍隊では捕虜になる仕方を教えていない」と彼女がおどろいているので、逆に私は、アメリカ軍では捕慮になることを教えているのかと、おどろいた記憶があります。余談ですが、終戦のすこし前の沖縄戦で多くの民間人が集団自殺をしたことはご承知のとおりですが、なかにハワイ帰りの人がいて、「武器を捨てて白旗をかかげて降伏すればアメリカ軍は殺さないはずだ」といって集団投降し、助かった人たちもいるという話をきいたことがあります。
戦争はもちろん多くの犠牲をともなう悲惨なものですが、日本軍の戦争法規についての無知と野蛮さがその悲惨さをいっそう大きくしたのです。