条約成立の経過
この時効不適用条約は、先ほど申しましたニュルンベルクと東京の国際軍事裁判所条例と密接にかかわってきます。むしろ逆に、この裁判所条例は、終戦直後に先にできたんです。ニュルンベルクは一九四五年八月八日に、東京のは翌年一九四六年一月一九日のマッカーサーの公式発令で、設立が決まりました。それは、ニュルンベルクにならって、、
平和に対する罪
通例の戦争犯罪
人道に反する罪
という三つのカテゴリーをきめて、これに対する犯罪として裁いていったわけです。
これがその後、国連でも取り上げられて、国連の決議になっていきましたが、「時効不適用条約」が採択されたのは、それから十数年たった一九六八年です。
それまでに戦争犯罪、特にナチス犯罪については、いろんないきさつがありました。
一九六五年五月八日に、西ドイツではナチス犯罪の時効が満期になるんです。それで、これを一九六九年一一月三一日まで時効を延ばすという法律を作った。そしてさらに一〇年間延長しました。いよいよその日が来たので、時効を廃止することを決めました。これは一九七九年ですから、不適用条約ができてからです。
一九六五年のころに、東ヨーロッパのポーランド、チェコスロバキア、ブルガリア、東ドイツでは、ナチ犯罪に時効はないということをすでに決めていたんです。ソ連も。
フランスは、一九六四年一二月二六日に、人道に反する罪の時効不適用を決めていました。
西ドイツが一九六五年にナチ犯罪の時効を延ばしたのが契機になって、国連でこれが問題になったわけです。
一九六五年の国連の人権委員会で、ポーランドが、「戦争犯罪人及び人道に反する罪を犯した者の処罰の問題」ということで、時効をなくすことを提起して、論議になって、経済社会理事会(これは人権院会の上部組織らしい)と事務総長に、この問題を国際条約として採択するように準備してほしいと要請の決議をしています。
それで、事務総長が、各国にこの問題について問い合わせをしまして「時効不適用問題の研究」というものにまとめて、人権委員会と経済社会理事会に返したわけです。
その間に、十数カ国の専門家で作業グループをつくったり、いろんな論議のてをつくしております。そして、その翌年の一九六七年の人権委員会でさらに論議されて、作業グループでそうあんをつくって、はかり、決議して、経済社会理事会に出してまた論議されて、国連の第三委員会というのに提出しています。
ここを通さないと、国連総会には出せないらしいのです。この第三委員会で、さらに十五カ国の審問委員会を開いて、いろいろ論議しています。
”時効”と”事後法”の問題
と言いますのは、どの国でも国内法では、時効のとりきめをみなもっているんです。国内法にあるのに、時効不適用という国際法をつくると矛盾するんです。しかも、問題は罪刑法定主義という法律の根本原則にふれるおそれがあるんです。
ナチがやったときの法律に時効があったのに、あとから時効をなくす法律を作ってそれを適用することは、”事後法”といって、法治国では絶対にみとめられないという大原則があるわけです。
そういう論議が何回も尽くされたうえで、六八年の国連の第二三回総会に、条約案を第三委員会が出し、賛成五八、反対七(米英をふくむ)、棄権三六(日本をふくむ)で、条約は成立しました。
条文の中に、開放というのは、各国に公開して加盟を呼びかけるのです。第一番目に批准したのはポーランドです。加盟国が一〇カ国になってから九〇日したら発行するという条文があって、一九七〇年一一月一一日発効となっています。
日本は批准していません。批准した国を当事国というのですが、私が持っている条約集では、一九八一年に当事国は二二カ国です。
賛成が多いのに、なんで当事国がそんなに少ないのかというと、批准すると国内法を変えなくてはならんとか、いろいろむつかしい問題があるんです。ちょうど男女不平等条約のときのように、その趣旨や理屈には反対できなから賛成するが、それぞれ国内の事情があって・・・・
特に日本で批准したら、岸信介などがまだ居りますから、大変なことになります。批准すると、それに合わせて国内法を改めて具体的にやらなければならない義務ができますので、批准はなかなか大変なんです。
だから、われわれとしては、批准せよという運動で、それができると大したことになります。
”時効”とは
国連で、一九六七年にこの「不適用条約」が採択されるまでの三年間に、”時効”と”事後法”の問題が、くりかえし論議されてきたことを述べました。
日本は、死刑の時効は三〇年で、無期は二〇年です。
(つづく)
パンフレット 「なぜ、いま 時効不適用条約か」
「戦争犯罪と人道に反する罪に時効はない」 から