私の八月十五日
和歌山東支部 T・ S子
戦後六〇年、今年も暑い夏とともに八月一五日、終戦記念日が来た。
私は戦後生まれで、戦争は知らないが、戦後のベビーブームの五五人学級一〇クラスの超マンモス教育をうけた。それが唯一、戦争に対する関心ごとだったのかも知れない。
他界した父も母も厳しい戦争の話はしなかったが、食料を仕入れに田舎に行った話や、途中貴志川線(昔は山東軽便と言ったそうです)に乗っていた時、空襲警報にあい、電車から飛び降りて子ども達と麦畑に隠れた…と、話してくれたのを思い出す。
今から思えば家庭ではあまり戦争の話はしなかったように思う。父は教育者であったのに……と今更ながらに思ってしまう。きっと、つらい苦しい事を語り継ぐのをためらったのだろうか。
小さい頃の思い出がひとつある。夜眠る時、枕もとに服をたたんで寝る習慣があった。兄弟五人の枕もとには夏は薄く、冬は今にも崩れそうな分厚くたたんだ服の山が出来たのを覚えている。
私は一番末っ子だったので、何かあった時にすぐ服が着れる様に…と、戦争を体験している姉からよく言い聞かされた。戦後数年過ぎていたというのに…。現在の子ども達には想像もつかないことだろう。
高校生のころには、ベトナム戦争を宿題にし、枯葉剤で苦しんでいる子ども達のことを書いた。現在のイラク戦争での劣化ウランなど、一番の犠牲者は小さな子ども達です。
被爆六〇年、広島平和宣言の中にも「こどもを殺すなかれ」と、書かれています。私達は未来世代へ守っていくべき日本国憲法を二一世紀の道標としていかなければならないのでしょう。
今、私達の職場は、平和と憲法を「学び、生かす」大運動を展開し、地域に九条の会を立ち上げることが提起されています。
戦後六〇年、私達自身が果すべき責任に目覚め、行動に移す決意をする年にしたいと思います。