Yさんに聞く 戦争体験
聞き手 林幸三
Q こんにちは。
Yさんは、公務員の労働組合運動や日本機関紙協会などでかつどうされ、いまは自治体関係の「九条の会」などで活動中です。今日はYさんに大戦下の繊細体験をお聞きします。
A 私は1938年(昭和13年)の8月、和歌山市材木町3丁目の和歌川に架かる紺屋橋(こんやばし)東詰めで、製材所の長男として生まれました。時は日中戦争のさなか。生まれて3年後の1941年12月には、太平洋戦争が始まりました。その翌年(4月だったと聞いています)戦況を拡大した政府は、兵器用の金属資源の不足を補うために『金属回収令』を出し、およそ金属という名のつくもの、鉄道のレールから、お寺の釣鐘、ベルトのバックルに至るまで強制的に供出させられた。製材所は、一部を取り上げられても仕事にならない。事実上廃業に追い込まれました。肺結核を患っていた父は「廃業」の精神的ショックと、連日続く無意味な「竹やり訓練」の過労が重なり、肺炎を併発。時節柄、医師の診察も受けられず、咳としゃっくりが止まらず衰弱して志望しました。父は31歳。残されたのは、母25歳、私が4歳、弟が2歳、そして祖父70歳、祖母60歳です(満年齢)。
Q お父さんが死んで、その後も、次々と不運が続いたと聞いていますが、どんなことがあったのですか。
A 主を失い、機会も取り上げられて、悲嘆に暮れる家族に更なる不運が襲いかかってきました。1945年4月、「建物強制疎開命令」が届きました。米軍の焼夷弾攻撃に対し、住宅の密集を間引きして延焼を防ぐことと、避難路を確保するために家屋を撤去するというのです。代替地も、移転費用もありません。移転先も自分で見つけよ、という理不尽。
ある日の早朝、トラックと馬力車がきて、兵隊の指揮で警防団の人たちが協力して、まるで荷造りでもするように、手際よく家にロープを巻きつけました。そしてトラックと馬力車で引っ張ります。家はたちまち、もうもうと巻き上がる土煙の中に姿を消しました。この様子を6歳数ヶ月の私は、疎開を免れた友達の家でじっと見つめていました。あまりの乱暴な壊し方に近所の人たちも涙をためて見つめていたのが印象的で、今でも覚えています。
私は今の今まで住んでいて、まだ温もりのある我が家がただ乱暴に壊されていく光景に言い知れぬ不安と悲しさがこみ上げてきて、声を上げて泣いてしまいました。
Q 機械を取り上げたれて、すぐまた住まいが取り壊されたのですか。
A 母が実家の協力でやっと棲家を近所に見つけました。その貴重な住まいが今度はわずか3カ月後の1945年7月9日の夜、あの「和歌山大空襲で完全燃焼しました。この夜、母は消火活動のため隣保班の人たちと戦火の町に残りました。60歳の祖母は弟を背負い、私の手を引いて逃げました。多くの人が南東の方向へ列を作って逃げました。太田八丁あたりを逃げているとき、焼夷弾が目の前で破裂しました。一瞬、昼間のように付近が明るくなり、企画で人の背中が燃えるのを見ました。焼夷弾が破裂して明るくなるたびに、人の悲鳴が聞こえます。朝まで走り続けて竃山人社につきました。あの夜の焼夷弾の雨の中を逃げまくった恐怖体験と、神社でもらった2人で1つのおにぎりの味は生涯忘れることはありません。
太平洋戦争が始まってから、国家によって機械をとられ、父が死に、家業も断たれ、家を2回も壊され、焼かれ、怒濤のように災難が押し寄せてきました。しかし、これは紛れも人災です。誰かが仕掛けた人災です。戦争さえなかったら、父も死なずに済んだはず。もし父が死んでなかった戦後に受けた母子家庭ゆえの言われなき差別や、セクハラなどの母の苦労もなかった。また、大空襲の下、祖母の背中で恐怖に息を詰めていた幼い弟がトラウマを引きずったままでの若いうちの自殺などもなかったはず。
きわめて個人的な理由だが、そういう意味で私は戦争を限りなく嫌悪する。
「不屈」和歌山東支部版 №64 2009.9.14