戦時法から人道法への発展
戦争を前提に戦闘方法の規制
さて、戦争が国際的に犯罪とみなされるようになりましたのは、第一次世界大戦以後のことで、六十年あまり前からに過ぎません。
それまでは”戦争は自由”であり、国際法規や慣例は、戦争を前提に、戦時中の最低のルールとして、戦闘行為や戦闘の手段、すなわち兵器などであまりに非人道的で不必要に残酷なものを、規制しようとするのが趣旨でした。
資料にあります”戦時法から人道法へ”という国際法略年表は、戦争と平和に関する主なものを、私がぬき出したものです。
赤十字条約の第一次のものが、一八六四年に、当時の文明国の間で成立しています。これは、戦闘が終わったあと、身動きできないで苦しんでいる重傷病者が、実に悲惨な取り扱いで放置されているということで、人道的な立場から、敵味方の区別なく救護しなければ、ということです。この条約は、その後、数次にわたって改正され、一九四九年のジュネーブ四条約=戦傷病者、捕虜取り扱い、文民保護=に発展しています。戦闘力を失った戦傷病者や、戦列を離れた捕虜や、戦闘と関係のない一般市民に対する取り扱いを、人道的に規制する条約なんです。 次のサンクト・ペテルブルグ宣言(一八六八年)というのは、具体的には四〇〇グラム以下の爆裂弾の使用禁止ですが、その前文に、故意に不必要な苦痛を与えて死に至らしめるような非人道的な兵器は禁止する、とうたっているのです。この前文は今も、戦争犯罪や人道に反する罪を論ずるときに、いつも引き合いに出されています。
この次のハーグ条約は、第一次(一八九九年)と第二次(一九〇七年)がありますが、ともに戦闘の手段と戦争のあり方を規定する陸戦、海戦の条規、開戦条約をふくんでいて、ダムダム弾、空爆(気球)、毒ガスなどの使用禁止を、宣言しています。
戦闘員や軍事施設でない、非戦闘員や一般市民、非軍事施設の学校や病院、無防備都市などを無差別に攻撃したり、盲爆することは人道上許せないので、国際法で禁止しようという合意が、多国間でできているわけです。
これらは、前に述べましたように、主として兵器だとか、戦闘の方法などについて規制する国際法規であって、まだ戦争そのものを罪として規定し、排除するというものではありませんでした。
侵略戦争は人類に対する罪
ニュルンベルクと東京の軍事裁判で、戦犯の断罪に共通して用いられたおもな法文は、一九二八年の不戦条約でした。
この「戦争法規ニ関スル条約」の第一条は、戦争を非とし、戦争を放棄することを、厳粛に宣言しています。
この条約は、六三カ国が調印し、日独ともに批准しています。当時国連に加入していなかったアメリカを含む二一カ国の汎米会議も、同じ年に、「侵略戦争ハ人類ニ対スル罪」と、一致して決議しています。
したがって、侵略戦争は、国際法違反で、犯罪とみなされ、その責任者が処罰されたのです。
しかし、「平和に対する罪」と「戦争責任者の個人責任」については、当時の既存の国際法(実定国際法といいます)には、明文の規定がないという理由で、これは事後法であって、罪刑法定主義に反するという主張もありました。
こういう意見は、軍事裁判の当時だけではありません。それから二〇年もたって、「時効不適用条約」が国連で論議されたときにも、また今から四年前の一九八三年に東京で開かれた「東京裁判の国際シンポジウム」の際にも、法律家の中から出されています。最近では、例の藤尾文相の放言の中にもあらわれています。
ところが、第一次大戦のあとには、戦争を違法なものとみなす、いわゆる戦争犯罪観の大きな流れが国際的に現れてきました。一九一九年の国際連盟規約は、「戦争ニ訴ヘザル義務」を定めています。
一九二三年の相互援助条約案と一九二四年の「国際紛争平和処理のジュネーブ議定書」は、どちらも「侵略戦争は国際犯罪である」と規定していますが、これらは多数の国が賛同していながら、条約としては見送られました。
このような動きは、一九二八年に成立した不戦条約に向かっての、国際世論の着実な進展とみなすことができましょう。現に、その前年の一九二七年の国際連盟総会では、侵略戦争は人類に対する国際犯罪を構成する、という宣言が採択されているのです。
国際法が条約として結実するまでには、このような過程をたどるのでしょう。国際法は、動き発展するものと考えられます。
条約として、明文化されていない場合でも、実定国際法の諸原則から、疑問の余地なく適法と認定されるような場合も存在するのです。その顕著な事例として、原爆裁判で、日本の裁判所が下した判決文をみることにしましょう。
パンフレット 「なぜ、いま 時効不適用条約か」
「戦争犯罪と人道に反する罪に時効はない」 から